分裂したキズナアイは「分人」だったのか?『私とはなにか』から考える

はじめに

キズナアイはご存知のとおり、世界初バーチャルYoutuberを自称するYouTuberである

キズナアイは、もともと一つの人格(演者)でキズナアイというアバターを担っていたが、活動からしばらくして複数の人格をもつようになった

つまり、一つのキズナアイアバターを複数の演者によって担うことになった

この記事の動機は、平野啓一郎の「分人」概念を援用し、一つのアバターに複数の人格をもたらしていたことを以前運営会社が発表したことにある

果たしてこの「分人」概念がバーチャルな存在においても適用されうるのか?がわたしの問いだ

この記事では、複数の人格をもつキズナアイが「分人」たり得たのか検討したい

「分人」とはなにか?

わたしの理解によれば、平野啓一郎の「分人」はコミュニケーションにおいて、人それぞれに対して違ったコミュニケーションのあり方をとることを指す

個人個人に一つの統一された人格があるのではなく、その人が置かれた環境、どのような対人関係であるかによって異なる人格が形成される

この異なる人格を、「分人」という単位で表現している

分人の構成比率は、誰とどう付き合っているかで変化する。その総体が、その人の個性となる。

また、この分人で構成された「私」は、環境によって変化する。

つまり、どういう環境にあるかによって、分人の構成比率が変化し、「私」の総体が変化する。

キズナアイにおける分人とは

キズナアイは「分人」足りえるのか、「分人」概念における重要な要素である人格、コミュニケーション、「顔」について整理する

  • 人格について

演者によってキズナアイの人格の分裂が必然的に生じる

  • コミュニケーション

キズナアイは、オリジナルのキズナアイを除いて、コミュニケーションを取らない

動画(≠生配信)では、キズナアイ同士でコミュニケーションを取るか、画面の向こうの私たちに一方向的に声をかけている。

  • 「顔」 外見的特徴について、「顔」は大部分を共通としているが、後に、外見的特徴に変化がつけられるようになった。

私たち(動画視聴者)とキズナアイの関係性

コミュニケーションについてさらに考えを深めることにする。コミュニケーションにおいて決定的に重要な対人間の関係性をYoutuberであることに注意して整理したい。

キズナアイは「顔」を共通しているが、総体としての「顔」、つまりキズナアイキズナアイたらしめるものは、何なのか。

それぞれのキズナアイが分人であることで、私たちのコミュニケーションのとり方が変わるはずである。

つまり、それぞれのキズナアイキズナアイという「顔」で統一されず、別々の個人としてコミュニケーションを取る

よって、私たちにとって、それぞれのキズナアイは別人として捉えられるものである。

言い換えると、それぞれのキズナアイが分人として別々の人格として表出するものでない。

なぜかというと、別々のキズナアイの人格を統一するものがないからである。

人格を統一するものは、複数の人格をただ一つに限定させるもの、つまり、人間であれば身体である。

別々の人格が、同じ外見的特徴をもったところで、キズナアイの人格同士が統一されるものではないから、人格同士が影響しあわない。

確かにアバターとしての「顔」は一つだ。

しかしながら、平野啓一郎が示した「顔」は身体と結びついて複製も、移植も、削除もできない、私たちそれぞれに固有なものとしての「顔」を意味するから、複製ができるコンピュータ上の顔は「顔」ではない。

したがって、同じキズナアイという記号であっても、私たちには、それぞれの人格が1/3ずつの構成比率で占められるのではなく、それぞれの人格が構成比率1の人格が別々にあるようにみてしまう。

その点にキズナアイが分人であるかという判断に重要な要素があると思われる

資本主義と分人

ここまで、キズナアイ平野啓一郎が示した分人でないことを示してきた。

さて、なぜ、必ずしもこの分人アイディアが受け入れられなかったのか。

問題は、人々が同じキズナアイの側を持っているにも関わらず、人格が追加されたことに対する拒否反応である。

この拒否反応は、2つの観点があると思っている。

一つは、別々の人格が統一された個人であるように思えなかったこと。

つまり、別々の人格は、これまで私たちが知っていたキズナアイと全く独立のものであることが受け入れられなかった。

これは、先に示した、キズナアイの別々の人格がキズナアイの分人ではないことが原因である。

分人ではなく、別々の人格であると私たちが認識することで、オリジナルのキズナアイと私たちの間で築き上げてきた親密感は、別の人格のキズナアイと共有できない。

2点目は、資本をより少ない労働で、より効率的に稼ぐという資本主義の論理に(意図していなくても)したがってしまったことである。

私たちが興味を持っていたのはオリジナルのキズナアイであり、必然性がなく、人格が増えれば、効率性のためであるとか、オリジナルキズナアイのリソースを動画以外のことに注力させたいとか考えてしまうのは避けがたい

分人ではなく、別々の人格であると私たちが認識することで、いままで発展のために努力やリスクを取ってきたオリジナルのキズナアイに対する敬意がかけているように(たとえオリジナルのキズナアイが全く気にしていなくとも)私たちは感じてしまう。

せめて、人格が増える必然性が、キズナアイを取り巻く物語として動画にされることで見いだせればよかったのではないか。

「分人」概念は、個人を複数の人格で担うことができるとすることとは違う。