『神様になった日』はなぜ良いのか
『神様になった日』をみて
結論から言えば様々な問題を扱った佳作だと思った。 以下はネタバレありの感想ですので注意を。
構成について ~美少女ゲームとの比較~
全体的に構成はエロゲ(以下美少女ゲーム)を踏襲されていると感じた 簡単に言えば、1~8話が共通パートであり、9~12話が個別エンド(トゥルーエンド)である。 共通パートは意味がないことに意味がある。 どういうことか。 アニメでは1話簡潔であるから、1話の中の構成が平坦でなく、小さい単位での起承転結がある 一方、美少女ゲームは基本的に共通パート、個別ルート、トゥルーエンドのように、物語の単位がアニメのようにアニメ内時間で区切られるのではなく、一つの可能世界の単位で区切られる。 だからこそ、美少女ゲームをアニメへ移行すると、ルートのいずれかを展開するか、複数ルートを何話かにわけて展開されている。 したがって、物語が進まないことへのイライラはアニメをベースにした考え方であり、平坦な日常パートが続くパートは美少女ゲーム的だと感じた。 日常の繰り返しの中で生まれる登場人物への感情移入が生まれるのに必要な時間であると感じる。
受け止められ方について
美少女アニメがポルノ的、つまり、男性主人公に都合のよいヒロインに囲まれることが当たり前のなかでこの作品はどのように受け止められたのだろうか まだ、感想を見ていないが感想は軒並み低評価であるように感じる。私は、Amazon Prime で鑑賞していたが、まだ最終話が公開されていないにもかかわらず、低評価であることに違和を感じた。アニメを問わず、すべての作品は鑑賞が必ずしもなされるわけではないとは思うが、途中経過の評価が作品全体の評価となることには疑問を感じる。せめて、1話に対する評価であるとかと切り分けてレビューがされるべきだろうと思うし、鑑賞するときに評価が見えてしまっては鑑賞にバイアスを与えてしまう気がする。
アニメというメディアについて
SNSやニコニコ動画などによるリアルタイムまたは非同期実況とともにある視聴環境にあっては、本作品のようなテーマを扱うこと自体が難しくなってしまう気がしまう。確かにニコニコ動画のコメントは動画に対するツッコミコメントによって、異なる観方を提供することができるが、アニメなどの作品に対する没頭具合を著しく下げてしまう。また、SNSであれ、ニコニコ動画であれ、コメントは原理的に多様な観方を提供できるように思えるが、実際には共感したいという思いがベースにあり、皆で同じ感想を持ちたい、あるいは、媒質の特性によって同じ感想を思考停止で持ってしまう性質があると思う。そのような媒体で作品を視聴することは、作品自体の印象さえ大きく変えてしまう。
テーマについて
導入はまさしく美少女アニメ的であるのかもしれないが、特に9~12話に関しては背景に現代的なケアの問題を含んでおり、意欲的な作品であると感じた。少なくとも、トレンドを狙った再生産やセカイ系の延長線上にある作品とは違う作品を作ろうという気概を感じることができた。しかし、細かないくつかの点で違和感や失敗をしているのかもしれないが、私は基本的に作品に対する揚げ足取りのような評価を並べたくはない。 まず、作品の背景にあるテーマは、次のようなものであろう。 生命倫理 人間の同一性、アイデンティティ AIと人間 ケア、介護、障がい者 子育て これらのキーワードを並べてみると、AIのようなテクノロジーと、新しい技術の登場による倫理の問題、そして、それらと現実の生活の中でのリアルなケアの問題がある。 ひとつひとつ見ていこう。 まず、AIと人間の問題。ひなの脳内に量子コンピュータが埋め込まれ、「神」になった。「神」の現れが非常に人間味のある姿や言動だったのは、アンドロイドとしてのAIとしたかったのであろう。 ひなの人格は量子コンピュータの機械が生成したもので、劇中でも「機械でも笑ったり反応できますよ」という旨のセリフがある。 そこにまず、AIと人間の問題があり、人間とはなにかという人間の同一性に対する問題がある。 前者は人間の本質はとはなにかをAIで再現しようと試みる過程のなかで扱おうとし、後者はなぜその人間は他の人間とことなるのかという人間の同一性の問題を示している。 例えば、人間の本質は心にあり、心が脳にあるのだとすれば、量子コンピュータを取り外したひなは、ひなではない。けれども、「神であったひな」と「神でなくなったひな」は陽太を通して葛藤がありながらも同一人物であること、そして、同じ愛を向けられる対象であるように感じられた。ひなの記憶は取り戻されない。しかし、ひなは陽太にだけは特別な感情があることだけは残っていた。それは、心が失われてもひなはひなであるという非科学的な領域、それこそ人間にとって扱えない領域、まさに神的領域というべきところだろう。 次に生命倫理の問題。量子コンピュータが取り除かれたひなは施設に入れられる。ひなは身体に不自由が生じる。それは、ひなが量子コンピュータを導入される以前の姿に戻ったのだ。このとき、ひなの家族は自分たちと離れ施設で暮らすことが両者にとってよりよい選択肢であると考えていた。だからこそ、家族の問題に割り込む陽太にたいして諦念のようなものを示していた。陽太が同じ立場に置かれたときにどうだったか。いままでとは全く違って自分を認識すらしてくれないひなに陽太は絶望した。この点に非常に現実的なケアや介護の問題があると感じる。いくら家族であったり、身近な人間であろうとそのような状況に置かれれば、綺麗な世界ではない現実的な問題や制約があり、それは愛だけでは乗り越えられない絶望がある。 寿命が伸び、親族の介護は身近なものとなるにあたっては、現実的には様々な歪みを生じさせており、それは愛だけでは乗り越えられないものがある。思い通りにならないことへの行き場のない感情は子育てにも共通するものである。
アニメという媒体の難しさ
まず、これらの問題を美少女アニメで扱おうとすること自体に、観客の期待するもの、観たいものとの差異があるのかもしれない点で難しいのかもしれない。 まず、ポルノ的な作品を望む観客に真面目な題材を展開することが難しいのかもしれない。 しかしながら、これまで名作と呼ばれてきたものは、広い大衆に受け入れられながらもその時代がもつ問題を表し、展開してみせた。 本作品でも導入の作品のテイストは美少女アニメ的でありながら、後半では問題意識の展開をしてみせた。 後半部分でついてこれない視聴者もいたのかもしれないと思う。視聴者が作品に対する謙虚さを失い、売れるか売れないかという消費の対象に回収されてしまったアニメではこのようなテーマを扱うこと自体が難しいのかもしれない。だから映画でならばこれは可能であったのかもしれないとも思う。
なぜ神様になった日は良いのか
テクノロジーの進歩よって生じる倫理的な問題と現実の生活にあるケアの問題を扱っている点。現実のケアの問題には様々な歪みがある。それらの問題を超越する人間が持ちうるものはなにか。これを示そうとしてみせた。その点に人間の営みの本質がある。
ひきこもりの効用ーひきこもることでコミュニケーションと向き合う
緊急事態宣言中にあえてコミュニケーションと向き合ってみたときのメモを共有
- 経緯
- リモートで議論に参加する機会があった。
- 自粛期間中、相手とコミュニケーションを取る機会がめっきり減ったが、このことによってむしろ、普段のコミュニケーションを見直す機会となっていると感じる。
- 普段は意識せずに、「反応」で会話していることも、コミュニケーションに疎遠になっていることで「反応」ができなくなった。それは、コミュニケーションを見直す上でいい機会なのかもしれない。
- 自分は、相手の言うことを反芻して聞くことに注力していたら、自分が発話する時間がかなり少なくなっていた。そのことは自分にとって大切なことだと感じた。
- 話すこと、聞くことにおける気付き
- 聞くこと
- 反芻して聞くことの大切さ
- 相手の行っていることをわかろうとするには、自分の中で相手のことばを言い換えたり、わからない点があれば、質問してみることが大切
- 聞くことの難しさ
- 相手の主張を理解しようとすれば、非常に集中力を使う
- 特に今回は話が点々とし、主張の整理が難しかった
- 2時間相手の話を聞き続けることは非常に困難
- 反芻して聞くことの大切さ
- 話すこと
- 話すことは、単に言いたいことをそのまま伝えるのではなく、相手に伝わる言葉、抽象度を選んで発話すること。
- そのためには、条件反射的に口を開くのではなく、まず言いたいことを自分の中で整理したうえで、発話を始める。
- その際には、一方的に話をすすめるのではなく、相手の反応をみながら、自分と相手でことばを共有できているかを確認しながら話を進めていく。
- 聞くこと
- 実践的なコミュニケーションの改善方法について
- 聞くこと
- 聞くことにおけるリアクション
- メモをとる
- 頷く
- はい、なるほどの言葉によって聞いていることを伝える(オンライン特有?)
- 相手へのリプライ
- 疑問点を質問する
- 自分の言葉で言い換えをする
- 相手の言葉をそのまま繰り返す。
- (ときにはメモをとる)
- 相手の話を聞くことに注力する
- 聞くことにおけるリアクション
- 話すこと
- 話すための準備
- 何を言いたいのかを話す前に整理する
- どんな伝える順番で言えばいいのか、考える
- 相手によって言葉を選択することを考える
- 話しているとき
- 相手の目や表情から会話が共有できているかを確認する
- 相手のリアクションによっては、こちらの会話の方針を変更することを考える。
- 単に文字を読み上げるように発話するのではなく、自分のリズムを感じながら抑揚をつける
- 話すための準備
- 聞くこと
分裂したキズナアイは「分人」だったのか?『私とはなにか』から考える
はじめに
キズナアイはご存知のとおり、世界初バーチャルYoutuberを自称するYouTuberである
キズナアイは、もともと一つの人格(演者)でキズナアイというアバターを担っていたが、活動からしばらくして複数の人格をもつようになった
つまり、一つのキズナアイのアバターを複数の演者によって担うことになった
この記事の動機は、平野啓一郎の「分人」概念を援用し、一つのアバターに複数の人格をもたらしていたことを以前運営会社が発表したことにある
果たしてこの「分人」概念がバーチャルな存在においても適用されうるのか?がわたしの問いだ
この記事では、複数の人格をもつキズナアイが「分人」たり得たのか検討したい
「分人」とはなにか?
わたしの理解によれば、平野啓一郎の「分人」はコミュニケーションにおいて、人それぞれに対して違ったコミュニケーションのあり方をとることを指す
個人個人に一つの統一された人格があるのではなく、その人が置かれた環境、どのような対人関係であるかによって異なる人格が形成される
この異なる人格を、「分人」という単位で表現している
分人の構成比率は、誰とどう付き合っているかで変化する。その総体が、その人の個性となる。
また、この分人で構成された「私」は、環境によって変化する。
つまり、どういう環境にあるかによって、分人の構成比率が変化し、「私」の総体が変化する。
キズナアイにおける分人とは
キズナアイは「分人」足りえるのか、「分人」概念における重要な要素である人格、コミュニケーション、「顔」について整理する
- 人格について
演者によってキズナアイの人格の分裂が必然的に生じる
- コミュニケーション
キズナアイは、オリジナルのキズナアイを除いて、コミュニケーションを取らない
動画(≠生配信)では、キズナアイ同士でコミュニケーションを取るか、画面の向こうの私たちに一方向的に声をかけている。
- 「顔」 外見的特徴について、「顔」は大部分を共通としているが、後に、外見的特徴に変化がつけられるようになった。
私たち(動画視聴者)とキズナアイの関係性
コミュニケーションについてさらに考えを深めることにする。コミュニケーションにおいて決定的に重要な対人間の関係性をYoutuberであることに注意して整理したい。
キズナアイは「顔」を共通しているが、総体としての「顔」、つまりキズナアイをキズナアイたらしめるものは、何なのか。
それぞれのキズナアイが分人であることで、私たちのコミュニケーションのとり方が変わるはずである。
つまり、それぞれのキズナアイがキズナアイという「顔」で統一されず、別々の個人としてコミュニケーションを取る
よって、私たちにとって、それぞれのキズナアイは別人として捉えられるものである。
言い換えると、それぞれのキズナアイが分人として別々の人格として表出するものでない。
なぜかというと、別々のキズナアイの人格を統一するものがないからである。
人格を統一するものは、複数の人格をただ一つに限定させるもの、つまり、人間であれば身体である。
別々の人格が、同じ外見的特徴をもったところで、キズナアイの人格同士が統一されるものではないから、人格同士が影響しあわない。
確かにアバターとしての「顔」は一つだ。
しかしながら、平野啓一郎が示した「顔」は身体と結びついて複製も、移植も、削除もできない、私たちそれぞれに固有なものとしての「顔」を意味するから、複製ができるコンピュータ上の顔は「顔」ではない。
したがって、同じキズナアイという記号であっても、私たちには、それぞれの人格が1/3ずつの構成比率で占められるのではなく、それぞれの人格が構成比率1の人格が別々にあるようにみてしまう。
その点にキズナアイが分人であるかという判断に重要な要素があると思われる
資本主義と分人
ここまで、キズナアイが平野啓一郎が示した分人でないことを示してきた。
さて、なぜ、必ずしもこの分人アイディアが受け入れられなかったのか。
問題は、人々が同じキズナアイの側を持っているにも関わらず、人格が追加されたことに対する拒否反応である。
この拒否反応は、2つの観点があると思っている。
一つは、別々の人格が統一された個人であるように思えなかったこと。
つまり、別々の人格は、これまで私たちが知っていたキズナアイと全く独立のものであることが受け入れられなかった。
これは、先に示した、キズナアイの別々の人格がキズナアイの分人ではないことが原因である。
分人ではなく、別々の人格であると私たちが認識することで、オリジナルのキズナアイと私たちの間で築き上げてきた親密感は、別の人格のキズナアイと共有できない。
2点目は、資本をより少ない労働で、より効率的に稼ぐという資本主義の論理に(意図していなくても)したがってしまったことである。
私たちが興味を持っていたのはオリジナルのキズナアイであり、必然性がなく、人格が増えれば、効率性のためであるとか、オリジナルキズナアイのリソースを動画以外のことに注力させたいとか考えてしまうのは避けがたい
分人ではなく、別々の人格であると私たちが認識することで、いままで発展のために努力やリスクを取ってきたオリジナルのキズナアイに対する敬意がかけているように(たとえオリジナルのキズナアイが全く気にしていなくとも)私たちは感じてしまう。
せめて、人格が増える必然性が、キズナアイを取り巻く物語として動画にされることで見いだせればよかったのではないか。
「分人」概念は、個人を複数の人格で担うことができるとすることとは違う。
10年ぶりにエヴァンゲリオン(TV版+旧劇)を観直してみて(感想メモ)
エヴァンゲリオンとの出会い
- 多分中学生にみた(エヴァンゲリオン破公開前くらい)
- 思い返してみて当時の感想はよくわからないが特に旧劇には圧倒された
当時との比較
作品を通して当時は...
- シンジくんと年齢も近いこともあり,シンジくんに感情移入していた
- ゲンドウはとんでもない畜生だと思っていた
今思い返すと
- エヴァに乗らないシンジくんにちょっとイライラ(結論がわかっているということもある)
- シンジくんの葛藤は今思えば幼いように思える,と同時に自分にも耳が痛い内容もあった
改めていまの感想
もはや葛藤しているだけで人間として高みに登っている感がある
- システムに寄生する大人より高尚であろう
やりたいこと・やりたくないことを主張できない,つまり,自律していない姿というのはいまの自分にも重なる部分がある
初めての採用面接で「第一志望です」の一言が言えなかった
採用面接に至るまで
- 志望度の高くない中小企業の面接
- インターンに参加しており,人事の方にはお世話になっていた.
- 複数回人事や現場エンジニアとカジュアル面接をしており,今回はこれまでとは違って人事責任者との採用面接
これまでの(面接を受けた)某社との関わり
面接当日
面接は途中までは順調だった(ように私には思えた)
回答はロジカルに話せていたと思うし,面接官のリアクションも悪くなかった
所属していた部活も同じだったこともあり,話も弾んだ
中盤に至るころには私は緊張からほぐれ,比較的落ち着いて回答ができていたと思う.
しかし,その状況が一転するのは,面接終盤に現在の就活状況とこの会社の志望度の高さを聞かれたときだった
何も動揺することはない
面接対策本に書かれているように,また,一般的な常識から考えて,御社が第一志望です,と簡単な理由を併せて答えればよいということは理解していた
面接官も決まりきった文句のやり取りを期待していたのだろう
しかし,僕はこの質問に「第一志望です」という言葉が口から出てこなかった
そのとき,頭によぎったのは,これまでお世話になっていた人事や現場のエンジニアである
私は,事前に人事や現場のエンジニアにお世話になっており,感謝の念を抱いていた
なぜかそのときは,面接の中で欺くような言葉を発することは彼らに対する信頼を裏切るようなものだと思われた
私の中に彼らのまなざしがあり,自らの誠実さが問われているように思えた.
冷静に考えれば,そのような文句は面接での常套文句でありお互い暗黙の了解のやりとりであった
しばしの沈黙の後,私は「志望度は高いです」という一言をひねり出すのが精一杯だった
その言葉を発したときには面接官から苦笑いがもれた
そこから面接官はその面接をスムーズに切り上げ,数分後にはオフィスを出ていた
僕はああ,やってしまったと冷静に振り返ることができたのは,面接に対する緊張と興奮が冷め,帰路についてからである.
「魔法少女リリカルなのは Detonation」なのはの少女性の最期
僕は、おそらく前作まですべてのシリーズを見ていて、(ただし、Vividなどの外伝?シリーズはみていない)前作のReflectionを再度見直してから劇場に臨んだ
ファンには、お約束のシーンや百合百合しているシーンなどとても楽しめる作品になっているだろう
個人的には、キャラクターの髪型がちょっとしたシーンで変わっていたりするのがとても観ていていやされた
(リーンフォースとユーリのポニテが可愛すぎる)
そして今作は、今までのリリカルなのはシリーズ同様、なかなかにシリアスな展開が含まれている
魔法少女ものだと、ほのぼのばかりしているように思えるが、そこはリリカルなのはであり、多くのファン層を持つ魅力となっているだろう
ところで、僕が一番に魅力を感じた部分が、登場人物のひたむきさである
現実で僕たちは、あらゆる選択の場面に直面する
そして、そのたびに、少なくとも僕は損得勘定をする
目の前の行動が、自分に利するかどうかを検討し、行動する
それは人間関係においても全くの例外とは言えないだろう
しかし、なのはたちはそんなものを全く感じさせないのだ
彼女たちは、信念を持ち、それを貫いている
ここからはネタバレになるが、特に、今回のなのははいつになくそれが病的であった
そしてそれが今回初めて大きく取り上げられていると思う
(Strikersでは、それを克服したらしい描写があった。今作はA'sとStrikersの中間に位置する)
まず、なのはが子供のころの自分と対面する場面がその肝である
あれは、リリカルなのはシリーズでは珍しい回想シーンである
なぜならば、既存のシリーズでは、登場人物の心情、そしてその変化というものは、戦闘中に相手と刃を真面目ながらその葛藤の中で表現されてきたからである
そして、病的と表現したのはなぜか
なのはは小学生である(中学生だっけ?)
その年ごろの少女は、自分のアイデンティティが揺らいでいるものであろう
なのはもその例外ではない
そして彼女の笑顔には年齢にふさわしい笑顔や無邪気さがある
しかし、なのはは仲間を守ることに病的なまでに使命感を持っている
それが、それを果たす力がなければ、彼女はどうなるのだろうか、そういう心配を抱かせる病的さなのである
それは明らかに少女に似つかわしいものではないのだ
しかし、それこそが大人になり切れていない少女性を表現しているというメタ的に構造になっている気がするのである
大人は諦めや妥協を知っている
Strikersの彼女はもうあらゆる面で大人になっている
そんな彼女の成長の過程を見事に表現しているように僕は思えたのだった