祈りとは何か 3.11

今日は3.11である。日付をまたいだ時は酔っていたので気づいていなかったが。

3.11含めて、祈りをささげることが身近で話題になっていた。僕自身はとくに気にしていなかったが、元旦には、参拝へ行き、家族の健康を毎年祈ることをしている。

3.11ということもあり、黙祷というものをしてみようと思った。

時間は3分弱だった。何かに祈ることは、改めて考えると不自然なのかもしれない。少なくとも僕の日常に祈りという行為は含まれていない。

しかし、いざ祈ってみようと思うと、自然に行為できる。何に、どんなことを祈るのか。そもそも誰に祈っているのか、祈っている最中は、そんなことは思わない。ただ、祈るという行為に集中している。

そこで、黙祷を終えてから、改めて、祈るという行為を考えてみた。

まず、僕は誰に(何に)祈っているのかということである。明確な存在ではなさそうだ。しかしながらも、僕は誰かが僕の祈りを無条件に聞いてくれる存在がいると思っているようだ。存在者に先立つ存在というか、目に見えないけれども存在するものということであろうか。

そして僕たちは何を目的に祈っているのか。本当に僕たちの祈りが直接的には誰かを救うことにならないだろう。間接的に祈っていることそれ自体が誰かにとって、救いになることはあるかもしれない。

話題は震災に戻るが、僕が元旦に祈る時と、今日の祈りでは何か違った気がするのである。

正月で、僕が祈りをささげたとき、特殊な場所であった。つまり、お賽銭箱を前にして、何か目の前に尊いものが存在している(気がする)。そして、僕たちは、その日常と切り離された空間で、祈りをささげる。祈りを捧げれば、日常の中へ戻っていく。そこで、祈りという行為は中断される(せざるを得ない)。

今日僕が祈りをささげたのは、自室である。直立で3分行った。

場所は、日常的空間だ。他人の目はない。祈ったあとも、僕はその空間で連続して生活し続ける。祈っている最中にもそれが(無意識のうちに)想起される。すると、僕は、ただ絶対的な存在者へと祈りを届けることに難しさを感じていたようだ。この祈りは届くのだろうか、と。すると、僕は、祈りという行為とともに、僕(たち)は何ができるのだろうか、という問いへ向き合わざるを得なくなる。そうして、祈りは終了し、生活へと戻っていく。

つまり、参拝時の空間で次のような違いがある。

 お寺では、祈りを受け取ってくれる存在者の存在がある(気がする)。だから、僕たちは、よい意味で、無責任な祈りをささげることができるのかもしれない。そして、その祈りの実現に対して、僕たちを行為に駆り立てない。むしろ、僕たちがかなえようとすること自体が、傲慢だとさえ思えてくる。

 一方、自室で、つまり、日常の空間で祈りを捧げたとき、祈りを受け取ってくれる存在者の存在が揺らぐ。ゆえに僕たちは祈りを捧げたことが、実現に結びつく力が働くことを想像しがたい。そして、僕たちを現実的な思考や行動へと行為を駆り立てる。

   この結論は、空間性の差異が祈りという行為に多大な影響を与えうるというものであるが、もちろんそれぞれ祈りの内容が異なることから、筋が通っているとは言えない。けれども、祈りというものを考える上で実感に基づいた経験であるから、これを記しておく。