無力感をバネに、そして決意し、越境しよう

あるトラブルがあり、タイトルのようなことを思ったのだ。

 

自分が何もできないということを克服したいがために、日々努力し続けなければならないということを改めて感じた。

 

自分は何も出来ないという無力感に苛まれる機会すら感じることのないほど、感情が劣化していたのかもしれない。

 

改めて、自分の中に利他性があることを肯定的に受け止め、次の行動につなげたい。 

 

ぬるま湯に浸りすぎた自分への訓戒として記した

 

コンテンツと消費者

 

最近良い消費者になるということを考える

 

そのきっかけはゲンロン8を読んだことにある

 

その中でゲームの歴史が次のように述べられる

 

90年代に、ゲームは、出版社とのメディアミックスでゲームが広がり、

 

その後2000年代以降、パチンコ化(課金に最適化したゲームシステム)する

 

パチンコ化した世界では、良質な(批評的意味のある、年表に残る)コンテンツが生まれにくい土壌となる。

 

再び、良いコンテンツを作るクリエイターを歓迎するような土壌を再生するために、消費者が変わる必要があると思った。

 

そのために、まず、年表に上がった作品や、ゲームにこだわらず、文学、映画、漫画を消費したいと思う。

人間とは何か? -SF映画から考える

人間とは何か?という哲学的な問いをテーマにして、扱う映画はたくさんある。

 

僕は、その中でもSF映画に興味をとても持った。

 

なぜかというと、科学技術が進歩するにつれ、人間の認知や意識について理解が進み、人間とは何か?という輪郭が明確になってくるからである。

 

どういうことか。

SF映画には、アンドロイド、サイボーグなどが登場する。

具体的な作品名を挙げれば、「攻殻機動隊」、「ブレードランナー」、「エイリアン」シリーズなどである。

アンドロイドやサイボーグは、人間を模して造られるが、それぞれが特有なふるまいを見せる。

例えば、「エイリアンコヴェナント」における、アンドロイドは、人間がもつ倫理観を逸した行動をする。(ネタバレのためにぼやかしておく)

つまり、私たち人間が、人間を造る過程で、人間とは何かを理解し、また、アンドロイドやサイボーグと人間の差異が、私たち人間の本質を示すような気がするのである。

特に、SF映画は、既存の認識を超えて、我々にその本質を届けてくれるように思える。

 

全く話は変わってしまうが、僕は、自分の関心と、進路とを上手く折り合いをつけることができないかと考えていた。

僕の関心は、哲学にあった。

人間とは何か、人間がつくる社会は、なぜ、今のようなシステムを持つのか。

人間が幸せに生きていくには、どうしていけばいいか。

この生は生きるに値するのか?

一方で、これらは、簡単には、キャリアと結びつかない。

そういう学問をするための時間は、それほどないだろうと思う。

その前に社会とどう折り合いをつけるか、ということが高い優先度をもって迫ってくるからだ。

そこで、一つの結論として、人間とは何か?ということを、信号処理や、情報処理技術を使って、解明していくことを研究のテーマとして、実証的な立場から探求していくことにしようと思う。

 

腑に落ちない点がないわけではない。

僕は、ほそぼそと哲学の勉強をしてきたが、大学入学時に手に取った哲学書がいまだに理解できず、なぜか、僕は、これを理解する必要があるのだ、という切迫感に今でも駆らている。

しかし、学問を学ぶためだけの期間というのは、ある年齢まで許されていることで、たとえ学者であれ、事務作業や教育指導をする必要がある。

だから、僕はもうすぐ社会と折り合いをつける必要がある。

大人になるとは、何であれ社会と折り合いをつけることだ、と聞いたことが思い出される。

けれども、大人になることは、必ずしも悲観すべきことではない。

大人にしか味わえないものがあるんだろう。

 

僕は、不安とやり残したことへの未練を残しつつも、大人への一歩をようやく踏み出そうと思う。

 

 

 

「やりたいこと」は実在するのか

 背景は、僕が進路について、真剣に向き合わざるを得なかったことにある。

 そして進路を考えるにあたり、「やりたいこと」は何かということを考える必要が出てきた。

 そして、考えることによって僕が出した結論は、当初僕が予想していたものと少し違っていた。

 それをここに書き留めておく。

表題を改めて解釈してみよう。 

「やりたいこと」を人生の中心に据え、その実現を目指して行動することがよい、と一般に言われる。

そして、「やりたいこと」は当然ながら、具体的な”こと”であらわされる。 例えば、イチローにとって、「やりたいこと」はプロ野球選手であることのように。

特に就職活動の中では、頻繁に聞くことである。そしてそれは、企業側よりは、リクルーター側、就職のハウツー本などで顕著であるような気がする。

そして、これもまた就職活動の中でなのだが、「やりたいこと」は、それぞれの胸の中に存在していて、「やりたいこと」がないという人も、自分について深く考えたり、いわゆる自己分析を行うことで、それを発見できる、といわれている。

一般に「やりたいこと」について述べられていることを整理すると次のようになる。

①「やりたいこと」の実現に自分の人生の中心に据えて生きるべきである。

②やりたいことは、具体的な”こと”で表現される。

③「やりたいこと」は分析的手法を用いれば、だれでも発見できる。

そこで、僕は、上から順番にその前提を含めて考えていく。

その中で特に、僕は、③に論点を当てたいと思っている。

そして、結論からいえば、僕は度の言説に否定的である。

まず、①について。

「やりたいこと」の実現を目指す生き方には、肯定せざるを得ない。

ただ、その生き方をだれもが実現できることではないということが問題の一つ。

そして、もう一つは、やりたいことがないという人にとって、この言説は、やりたいことがあるという人と比べて引け目を感じる要因になりうるということ。

また、同様にやりたいことがあるけれども、経済的な理由などで実現が難しい人にとっては、いまここに注力しない言い訳になりうる。

この2点から、①の言説には何らかの再解釈が必要だと思っている。

そして、②やりたいことは、具体的な”こと”で表現される へ進む。

当たり前のことを言っていて、これ自体に解釈を加えようがないのだが、論点として挙げるために、明記した。

すなわち、人生の中心に据えるべきであるという「やりたいこと」を具体的なことであらわすことは、ほとんどの場合において、むずかしいと考えている。

つまり、どういうことか 僕は、具体的なことを人生の中心に据えるべきではなく、目指すあり方を規定し、それに従った生き方を目指すべきであると思う。

なぜならば、やりたいことというのは、様々な要因が偶然に何か特定の”こと”に現れているに過ぎないと思っているからである。

成功者のわかりやすいストーリーを聞くと、「やりたいこと」なる明確な”こと”があるように思えるが、それは偶然その人が目指すあり方を実現する手段に「やりたいこと」が適していたか、あるいは、後付けで、一貫した論理とするために、「やりたいこと」というものを規定しているに過ぎない、と思う。

だから、僕たちが、そのストーリーを真似しようとするのではなくて、それぞれが目指すあり方を決めて、それにどれだけ近づけるかということを考えた方がよいと思う。

なぜ、あり方を規定する方がよいのかとする積極的理由については、割愛。方法序説を読んで思ったことなのでそちらを参照のこと。

それを踏まえた上で③へ。

③「やりたいこと」は分析的手法を用いれば、(一定の年齢に達していれば)だれでも発見できる。

まず、この言説に対しては、否定的にならざるを得ないでしょう。

絶対内定という就活本の中で、一番売れている本に書かれている内容なのですが、様々な視点から否定できると思います。

分析的手法によって、自分の指向性や、人にどのように見えているか、ということは、ある程度分かるかもしれません。しかし、その読者の大半が22~25歳程度の経験で、何か特定の「やりたいこと」が見いだせないと思います。明らかに判断するための経験が不足しているからです。

例えば、一度も働いたことがない人が、金融業界で働くことがあなたがやりたいことです。と提示されて納得がいくのでしょうか?

なので、分析的手法が普遍的な手法だと思えない以上、就職活動に対して不安を持っている学生を餌にした商売のようにしか思えないのです。

「やりたいこと」は誰のうちにでも存在していて、自己分析を行えば、それが具体化される、ということは、誰にでも当てはまるものではなく、むしろ、当てはまらない人のほうがおおいと思います。

ましてや、就職活動の場において、たとえ、やりたいことと職業と結びつくわけではないでしょう。また、結びついたとしても、実際にその職務につけるかどうかは、他部署へ配属されたなどのリスクが伴うところでもあります。

もう、酔っ払って、議論がめちゃくちゃなのですが、僕が最終的に言いたいことは次です。

「やりたいこと」は存在しないかもしれない。だから、僕たちは、「やりたいこと」がないことに引け目を感じて、生きていくのではなくて、だからといって、自分の指向性を知ること、また、自分を良くすること、に対しての努力は継続すること。

そして、「やりたいこと」が見つからないのであれば、当分の間、可能であれば、「やりたくないこと」をやらないことを貫くことが良いのではないか

「やりたいこと」は私の中に、生まれたときから存在するのではなく、じんせいの中で形成されていき、変化をするものではないかということ。

なんとなく、最後は断定口調になりましたが、酔っ払ってもう考えられないので、ここで締めることとします。

祈りとは何か 3.11

今日は3.11である。日付をまたいだ時は酔っていたので気づいていなかったが。

3.11含めて、祈りをささげることが身近で話題になっていた。僕自身はとくに気にしていなかったが、元旦には、参拝へ行き、家族の健康を毎年祈ることをしている。

3.11ということもあり、黙祷というものをしてみようと思った。

時間は3分弱だった。何かに祈ることは、改めて考えると不自然なのかもしれない。少なくとも僕の日常に祈りという行為は含まれていない。

しかし、いざ祈ってみようと思うと、自然に行為できる。何に、どんなことを祈るのか。そもそも誰に祈っているのか、祈っている最中は、そんなことは思わない。ただ、祈るという行為に集中している。

そこで、黙祷を終えてから、改めて、祈るという行為を考えてみた。

まず、僕は誰に(何に)祈っているのかということである。明確な存在ではなさそうだ。しかしながらも、僕は誰かが僕の祈りを無条件に聞いてくれる存在がいると思っているようだ。存在者に先立つ存在というか、目に見えないけれども存在するものということであろうか。

そして僕たちは何を目的に祈っているのか。本当に僕たちの祈りが直接的には誰かを救うことにならないだろう。間接的に祈っていることそれ自体が誰かにとって、救いになることはあるかもしれない。

話題は震災に戻るが、僕が元旦に祈る時と、今日の祈りでは何か違った気がするのである。

正月で、僕が祈りをささげたとき、特殊な場所であった。つまり、お賽銭箱を前にして、何か目の前に尊いものが存在している(気がする)。そして、僕たちは、その日常と切り離された空間で、祈りをささげる。祈りを捧げれば、日常の中へ戻っていく。そこで、祈りという行為は中断される(せざるを得ない)。

今日僕が祈りをささげたのは、自室である。直立で3分行った。

場所は、日常的空間だ。他人の目はない。祈ったあとも、僕はその空間で連続して生活し続ける。祈っている最中にもそれが(無意識のうちに)想起される。すると、僕は、ただ絶対的な存在者へと祈りを届けることに難しさを感じていたようだ。この祈りは届くのだろうか、と。すると、僕は、祈りという行為とともに、僕(たち)は何ができるのだろうか、という問いへ向き合わざるを得なくなる。そうして、祈りは終了し、生活へと戻っていく。

つまり、参拝時の空間で次のような違いがある。

 お寺では、祈りを受け取ってくれる存在者の存在がある(気がする)。だから、僕たちは、よい意味で、無責任な祈りをささげることができるのかもしれない。そして、その祈りの実現に対して、僕たちを行為に駆り立てない。むしろ、僕たちがかなえようとすること自体が、傲慢だとさえ思えてくる。

 一方、自室で、つまり、日常の空間で祈りを捧げたとき、祈りを受け取ってくれる存在者の存在が揺らぐ。ゆえに僕たちは祈りを捧げたことが、実現に結びつく力が働くことを想像しがたい。そして、僕たちを現実的な思考や行動へと行為を駆り立てる。

   この結論は、空間性の差異が祈りという行為に多大な影響を与えうるというものであるが、もちろんそれぞれ祈りの内容が異なることから、筋が通っているとは言えない。けれども、祈りというものを考える上で実感に基づいた経験であるから、これを記しておく。

はじめまして

ブログ?始めました。

始めた目的は、3つあります。

・他者が観る可能性がある文章を書くことが、自分だけのノートに書いているときよりも、真面目に書くことになるのではないか。(そんな機会があってもいいのではないか)

・定期的に見返す文章を書き留めたい。自分のノートは見返すには量が多すぎる。また、重要度やタグなどで整理されていないので、アクセスしづらい。

・一つ目と少し重なるが、書いた文章を客観的に眺めることができるのではないかということ。自分のノートとブラウザ上のあるHPでは見方が変わってくるような気がしている。

そんなこんなで、特に他者に訴えたい内容があるわけでもなく、リアルでの付き合いのある人たちには、僕の内面を表現した文章を読んでその後の関わり方が変わってくるのも嫌なので、匿名ブログという手段を用いることとします。

継続を目的にしないが、この記事だけの状態というのも、寂しいので書く際のルールを設けることにします。

・誤字脱字、論理の飛躍などは基本的に気にしないこと

・内容が途中でも投稿してよいとする。完璧さを求めない。

・もちろん、煽ったり、何かを貶めるようなことはしない。

以上です。